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東冬 侯溫(トントン・ホウウェン)

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東冬東冬 侯溫
(トントン・ホウウェン) (タロコ語の名に漢字の中国語読みを当てた名)
タロコ(太魯閣)族(台湾先住民族の一つ)

プロフィール
現代芸術家,歌謡/口琴/木琴/儀式等の部落文化伝承者,伝統儀式と言語研究 等。
台湾東部の花蓮県山間部、秀林郷銅門部落出身。祭司の家系で祖父母に育てられたため、自民族の言葉と文化をより直接学び、タロコ語を自在に操ることができる。伝統的な歌舞への造詣も深いが、これは若い世代では珍しい。
高校卒業後、太鼓集団「優人神鼓」等に参加し、舞台上の技術を磨く。同時に「原舞者」(フィールドワークを重視する先住民族の舞踊集団)の学生メンバーともなり、これらのグループの公演で多くの国を歴訪。その後、政府機関・原住民委員会の「村に住むアーチストプロジェクト」二年間参加、小劇場活動。この間、創作媒体を小劇場から徐々に映像・アクション・インスタレーションを融合させたマルチメディアへと発展させる。フランス・アビニヨン芸術祭参加。
2012 pulima芸術賞((財)原住民族文化事業基金会による、先住民現代アートのための賞)審査員大賞
2014国際南島美術賞入選
2014pulima芸術賞グランプリ

台湾先住民族とは
台湾では現在非漢民族である先住民族が16民族認定されている。タロコ族はその一つ。台湾先住民族は、台湾島とその周辺島嶼に古くから住んでいたが、17世紀ごろからスペイン、オランダ、清朝と外来勢力に翻弄される歴史を歩み、19世紀末からは日本、20世紀半ばから中華民国の統治を受けてきた。当時日本人は先住民族を「高砂族」と呼び、日本語教育や日本名を名乗らせるなどの同化政策を採った。中華民国(国民党)政府も先住民族の漢民族への同化政策を採ったが、1980年代から、台湾の民主化と呼応して民族としての権利獲得運動が徐々に成果を収めるようになる。先住民族の総称も法律上、1994年に「原住民」、1997年には「原住民族」と改められた。なお、「原住民族」は日本語の「先住民族」に当たる台湾の中国語の呼称で,「原」は「もともとそこに住んでいた」という意味を持つ。日本語の「原住民」とは異なり、差別的な語感はない。詳しくは、『台湾原住民族との交流会 』サイトの「台湾原住民族とは」http://www.ftip-japan.org/people 参照。

台湾の先住民族音楽事情
台湾では、この二十数年、伝統的な自民族の歌曲を現代的にアレンジして歌う先住民アーティストの活躍が目立っている。日本のレコード大賞に相当する「金曲奨」には先住民アーティスト部門が設けられている。また、民族文化の伝承を義務教育レベルで熱心に行っている地域も少なくない。
来日公演やライブを行っている者もいる。日本にワールドミュージックとして最も早く台湾先住民族の歌を紹介したのはアミ族の長老、故・ディファン氏。1992年のアトランタオリンピックの公式CM曲(エニグマの”Return to Innocence”)に彼の歌ったアミ族の歌が無断でサンプリングされていて訴訟を起こしたことで一躍有名になった。その後和解が成立し、ディファン氏はレコードデビューを果たす。当時78歳と世界最高齢の歌手デビューとして名を馳せた。
現在最も頻繁に来日しているのはアミ族のスミンか。アミ族の歌のボサノバ風アレンジが得意。また、距離的にも近い沖縄の音楽シーンでの台湾先住民アーティストとの交流・コラボレーションは東京よりもずっと盛んで、台沖間で音楽フェスティバルへの出演も多い。

バトゥラン(batulan)
それはタロコの人々の大切な食物、粟を口の中で噛んでくっつかせて塊とする意のタロコの言葉。先人はこれを人と自然の結びつきの寓意と捉え、命が形をとって現れることを指すとした。

銅門集落のタロコの人々は日本統治時代の前、バトゥランをはじめとする八つの宗族から成るバトゥラン(“凝集する土地”の意)系統の一族だった。先人たちは自らを「バトゥラン人」と称していた。その意味するところは、人々の結束。私たちは神話の時代から歴史時代に至る生命の体験を共有し、影響を与え合い、山林や大地と共生するいくつもの智慧を分かち合い、受け継いできたのだ。

しかし、今や村の人々は、その美しい過ぎ去った時とそこに存在していた精神を忘れようとしている。祖母が曾て、タロコ族のGayaをどのように守っていくかを説いてくれた(Gaya:タロコの道徳規範であり、信仰や儀式の典範でもある。近代的な概念では”宇宙の真理”と解される)。祖母はこんなふうに語った、「私たちの教えはね、驕り高ぶるのでなく謙虚であれってこと、少ないってことは豊かだってことさ。人を妬むんじゃなくて自分以外のものの命を大切に思うことを学ぶんだよ。お前を助けてくれる全てのものに対してありがたく思う気持ちを忘れちゃいけないよ。自分のことだけ考えちゃだめ、自分の持ってる全てのものを人と分かち合いなさい。そうしていればきっとあの美しい世界でまた会えるからね」。
祖母がこの世を去ってからずっと、祖母のこの言葉を私は自分の中で咀嚼し熟成させてきた。私たちの村の価値観は時代と社会の変化の洪水に呑み込まれて一挙に変わってしまった。この土地の元々の主であったのに社会全体との競争を強いられて少数派となり、どんどん周辺へと追いやられていった。そして、教育を介してこの社会制度の一部分となるしかなかった。

伝統の手工芸や言葉、文化は私たち先住民の上辺を飾るものとなっていったが、では、私たちの内面は? 先人が伝えてくれたものは目に見えるものだけではない。私たちが民族のきらびやかな衣装を身にまとうようになった後、山はどうなった? 古い踊りを踊り始めた後に、谷川は? 古い歌を歌い始めた後に、この大地は? 文化がスローガンではなく、形式的な学習のみでもないなら、どのように実践していけばいいのか?どのように生活の中に表されるべきなのか? この使命と義務は長老たちだけによって担われるのでなく、若者もタロコの生命という織物の縦糸横糸となるべきなのだ。どのように次世代に伝え、どのように伝統の中から新しい文化を生み出していけるのか、そして、その先人の教えを新しい世界を創り出すエネルギーに変えて、方法や道具はいくつもあるけれど、それらが心底からの純粋なこの思いを受け継ぐことさえできれば、村のものである言葉と、発見されたばかりのあの古い村に続く道を私たちは見つけ出すことができると信じている。

去年、私は文字と舞台による創作を通してバトゥランの思いを形にしようと試みた。その中で、村の人たちがこのパフォーマンスを楽しむことを通して我々が共有していた古い記憶を呼びさまし、バトゥラン=凝結すべき者であることを忘れないで互いのよさを分かち合うことができるのではないかと思ったのだ。文化は遥か遠くにあるのではない。自己に内在する素晴らしいものに気づき、滅茶苦茶にされた土地との関係を取り戻すものだ。
私は古い楽器や歌を頻繁に用いているが、劇中にそれらを取り入れる過程で、音楽と歌が整理されアレンジされ変化していき、異なる音楽と結びつくことができたなら、その中に無限に含まれる創造力が現れ出て、古い音楽に込められた思いを辿ることができると気づいた。個人の内心を表す口琴だろうと、儀式に用いられる狩り笛だろうと、知らせを伝えるために鳴らす木琴だろうと、単に音楽を表現しているのではなく、一民族の特質や価値観を、そして陰に陽にバトゥランの音を伝えようとしていると知ったのだ。

もし、一枚のバトゥランのタロコ族を表す音楽作品のアルバムをタロコの人たちやこの土地に生きる人たちに聴いてもらい、その音楽の中で明らかにされている思いに耳を傾けてもらうことができたなら、バトゥラン人の意志を継いで無限の創造性を見いだし、命の美しさを構築し、内心の自在さに立ち戻り、そして土地や山林と人との最も近しい関係を結んでもらうことができる。なぜなら、それは私たちの祖先がやってきたことだから。私たちにその目覚めが訪れたとき、それが私たちだけでないことを心から願っている。

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